世界のケータイ事情

メキシコの王様

 アメリカ・モビルという企業をご存知だろうか。

 日本人にはなじみの無い名前かもしれない。アメリカと付くが、アメリカ合衆国の会社ではない。メキシコのとある富豪が所有する中南米地域で最大の通信事業者なのだ。そして、その富豪とは、フォーブス誌のビリオネア・ランキングで毎年のようにマイクロソフト社創業者のビル・ゲイツ氏と1位の座を争っているカルロス・スリム氏である。

 2014年3月に発表された最新のランキングでは2位となったが、フォーブスが推定する彼の総資産は720億ドル。メキシコ1国の国内総生産(GDP)がおよそ1兆8000億ドルというから、その規模と影響力は甚大である。つまり、スリム氏が持つ資産は、1億超の人口を抱え、OECD(経済協力開発機構)加盟国にも名を連ねるメキシコのGDPの4%に相当するということだ。

 そんなスリム氏は、一代でその財を築いた立志伝中の人である。彼の父親も小売業で成功を収めた実業家だったが、若くして亡くなった。だが、受け継いだ商才と与えられた教育の賜物だろう。スリム氏は25歳頃から次々と会社を設立し、多業種に参入する。1980年代には不動産から小売、建設、金融、鉱業に至る幅広い分野の企業を買収して自らの傘下に収めた。そして、1990年にメキシコ国営通信事業者(日本の電信電話公社に相当)が民営化されると、フランス及びアメリカの大手通信会社と共同でその株式を落札し、通信市場への参入を果たした。

 ちなみに、このとき共同購入に参加したアメリカの大手通信会社は現在のAT&Tの前身であった事業者で、合併を重ねAT&Tと名前を変えた後も密接な関係にあり、同社は二十余年にわたりアメリカ・モビルの主要株主であり続けた。今年に入って、AT&Tはついにアメリカ・モビルの株式を手放すことを決めたが、AT&Tのトップであるランドール・ステファンソンCEOはカルロス・スリム氏の下で働いていた時期もあったという。三行半などというメディアなどからの揶揄に、彼は「これからも両社の良い関係は変わらない」としきりに語っていた。

 スリム氏はメキシコの通信市場に参入したが、そこだけに留まらなかった。スペイン・ポルトガル語圏の中南米諸国とメキシコ移民が多いアメリカの通信市場へも手を伸ばし、ついには年間総売上が600億ドル、モバイル契約数2.7億、17カ国に展開する巨大な通信事業者を作り上げた。

 そんなアメリカ・モビルは、お膝元のメキシコでは「テルセル」というブランド名でモバイルサービスを提供している。マーケットシェアは7割、と圧倒的だ。「テルメックス」のブランドで提供している固定通信サービス(電話とブロードバンド)でもシェアは60%を超えており、言ってみれば、彼はメキシコ通信市場の「王様」なのである。

 そして、彼のフィールドである中南米には「かつての王様」の姿もある――スペインの旧国営事業者テレフォニカだ。こちらは「モビスター」の名前で14カ国に参入し、アメリカ・モビルと各国で鎬を削っている。

 ところが、今、その王様に真っ向から立ち向かい、その牙城を切り崩そうとする動きがある。先頭に立つのは、彼の母国メキシコのエンリケ・ペニャ・ニエト大統領だ。実は、アメリカ・モビルの強大すぎるプレゼンスは長らくメキシコ政府の懸念であり、市場での競争が健全に機能していないことが問題になっていた。そのため、政府は事業者のマーケットシェアに上限を設け、それを超えると厳しい規制を課すよう法律を変えたのだ。

 もちろん、その影響を真っ先に受けるのはスリム氏のアメリカ・モビルである。売上の減少が避けられない見通しのなか、スリム氏は事業の新天地をヨーロッパに見出した。それも、何かと縁の深いイベリア半島ではなく、CEE(Central and East Europe)と呼ばれる中・東欧地域である。そのために、彼は手始めにCEEで広く事業を展開しているオーストリアの旧国営通信事業者を買収した。

 中南米諸国やアメリカのように言語や民族的な繋がりをアドバンテージにすることができない東ヨーロッパの地で、アメリカ・モビルはいかに事業を展開するのか。続報を楽しみにしたい。

KDDI総研 堺原いずみ

(株)KDDI総研 調査1部 海外市場・政策グループ。写真によってはちょっと怖い風貌のスリム氏だが、実は愛妻家だったそうだ(夫人は1999年に逝去)。通信業以外の企業のコングロマリットの名称は「カルソ(Carso)」。自身(Carlos)と夫人(Soumaya)の名前の冒頭を組み合わせたものだという。また、メキシコシティには彼女の名を冠したソウマヤ美術館がある。